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遊女 [歴史]

天正18年に徳川家康が江戸に入り江戸の町の建設が始まると建築景気により江戸に仕事を求めて若い労働力が入ってきましたこのため江戸時代の初期には江戸の人口は女性よりも圧倒的に男性が多くいましたその結果結婚できない男が多数いてこうした男達を目当てに江戸の各地に女郎屋がたくさんできましたがその中でもひときわ人気なのが湯女です天正19年伊勢の与一が銭瓶橋のあたりで湯屋を始めました当時の湯屋は蒸し風呂でその後湯屋が増え湯女とよばれる女をおくようになりました15文、20文を払えば湯女が客のあかすりや洗髪をしてくれ慶長見聞集によると湯よ茶よといひてもちきたりたはむれ浮世がたりをなす男の相手もするようになり形態としては現在のソープランドに似ていますところが吉原ができるようになると湯女をはじめ各地の女郎屋は禁止されました


タグ:湯女 女郎屋
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江戸のアダルトグッズ屋 [歴史]

両国にあった四ツ目屋は性具、媚薬、春画などを扱った店で黒地に四目結の紋所がトレードマークでした日本のアダルトショップの元祖とも言われています性具には陰茎に巻きつけるサトイモの茎肥後ずいきや陰茎の形をした張形陰茎に装着して太くさせる鎧形などがありました


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飯盛り女 [歴史]

宿場の旅籠には飯盛り女と呼ぶ遊女を置くことを幕府の道中奉行から許されていました江戸時代も中期以降になると庶民の生活水準が向上して伊勢参りなどの旅行が盛んになり泊まった旅籠で遊女と遊ぶのが旅の男たちの楽しみでした品川内藤新宿千住板橋の江戸四宿は宿場であり厳密には江戸ではありません宿場の旅籠には旅の人もいますが遊女が目的で遊びに来る人もいました遊女の料金は昼は600文夜は400文が相場でしたこれは時間制で泊まる場合はもっと高くなりました品川500人内藤新宿千住板橋は150人まで遊女をおくことを許されていました特に品川は繁盛して吉原と比較されるぐらいです天保15年関東取締出役が調査したところ遊女をおいた旅籠は94軒で500人でなく遊女の数は1348人いました品川のガイドブック品川細見によると揚げ代銀10もんめの高級遊女金2朱41人その他600文500文400文の遊女もいました

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岡場所 [歴史]

江戸時代では吉原遊郭以外の場所での女郎屋は禁止されていましたそれはあくまで建前で実際には岡場所と呼ばれる非合法の遊里が江戸の各地にあり時代により40ヶ所から50ヶ所ありました岡場所が繁盛したのは江戸の市中にあるので便利な点となにより価格が安かったからです吉原では見物だけで終わることもあり岡場所では気軽に遊ぶことができました岡場所は四六見世と呼ばれる女郎屋が主流で揚げ代は昼間600文夜は400文でした昼間のほうが高いのは当時の時代背景があります藩邸内の長屋でおよそ1年暮らす勤番武士は単身赴任で金には余裕がありませんしかも大名屋敷は門限が厳しく日没には表門が閉じられますまた当時の商家の奉公人は住み込みで大店には若い男の奉公人が大勢いて主人や番頭の目があり夜の遊びは難しく昼間外出した機会に岡場所で遊ぶしかありませんでしたこのために岡場所の女郎屋には昼間に客が多く時間が無いため酒宴などでお金を落とすことが無く払うのは揚げ代だけです岡場所では昼間の揚げ代を夜より高く設定する必要がありました岡場所は非合法の場所ですが堂々と営業していたのは町奉行の役人に賄賂を使いお目こぼししてもらっていたからです吉原は岡場所を商売敵と見て町奉行所に取締りを要請しますが役人は動きませんでした天明7年松平定信が老中に就任してから断行した寛政の改革で岡場所は隠売女稼業として取締りを受けました松平定信が失脚するとすぐに復活しましたその後老中水野忠邦が天保12年に開始した天保の改革でも根絶やしにされましたが水野忠邦の失脚ですぐに復活しましたこのように岡場所が何度も復活したのは江戸の男に需要があったからです

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夜鷹 [歴史]

有名なのは茣蓙一枚で夜道に立ち男を誘う夜鷹商売をするのは暗がりの路上で地面にしいた茣蓙の上です揚げ代は400文といわれて現代では500円のワンコインで遊べましたただし夜鷹は宿場や岡場所で通用しなくなった女で年齢も高く病気もちなのは常識でした夜鷹と遊ぶと鼻が落ちるといわれ性病の梅毒の末期では鼻がかけることがありました地獄と呼ばれる隠売女もいました素人の娘や女房が小料理屋の2階や知人の家を借り秘密に営業するもので揚げ代は1朱、2朱で現代の6200円から1万2500円ぐらいです岡場所の揚げ代に比べて高いのは素人を売りにしているからで月雪花寝物語に暗闇の色事にじごくのたのしみとあり秘密の色事なので地獄と言われていました芸者が酔った客に自分は芸を売っても体は売らないといいますが実際には芸者が客と寝るのは常識でした芸者が小料理屋や船宿の2階で隅田川に漕ぎ出した屋根船のなかで隠売女稼業をしていたとして町奉行に召し捕らえられる事件はあとを絶ちませんでした寛政10年には15歳から29歳の芸者46人が逮捕されています
http://memai.ryokou.me/

お歯黒 [歴史]

江戸時代結婚が決まるとお歯黒をしましたこれを判元服といい子供ができると眉をそりましたこれを本元服といいましたいずれも既婚の女性の印ですなぜお歯黒をするといえばお歯黒の黒は他の色に染まらないことから心変わりしない貞女の印とされたのである吉原などでは高位の遊女だけがお歯黒をしましたそれは客に対する貞節の印でもありましたお歯黒の原料はウルシ科のヌルデの木の若葉にできる虫こぶで主成分はタンニン酸ですお歯黒水は酢、米のとぎ汁、酒、茶汁などの中に折れた針や錆びた釘などを入れて作ったただし6ヶ月以上たたないといいお歯黒水はできませんこの五倍子粉と沸かしたお歯黒水を交互に歯につけていきますお歯黒は大変くさく渋かったので家人が起きる前につけてつけ終わったら嗽茶碗でうがいしました房ようじの普及など江戸では歯磨きの習慣が定着していたがお歯黒も原料の五倍子粉に含まれるタンニンの効果で歯をひきしめ虫歯や歯槽膿漏の予防に役立ちました

江戸シャンプー [歴史]

今でこそ毎日シャンプーする人がいますが江戸時代の一般庶民の洗髪は月に2,3回夏場はもう少し回数を増やす程度が普通でした一般に洗髪剤として使われたのは布のりとうどん粉です布のりは熱湯で溶いてその中にうどん粉を入れて髪を洗いその後熱いお湯できれいにすすぎましたそうすると髪についていた油もきれいに落ちて匂いも消えましたさらに髪がしっとり滑らかになり艶も出ました現代のリンスと同じです洗った髪は手ぬぐいで拭いてその後肩に前垂れなどを掛け自然乾燥させました江戸っ子の銭湯好きは有名で髪は自宅で洗うのが普通だったのか浮世絵でも銭湯で洗っている様子がありませんおそらく自宅で湯を沸かしてもろ肌になり縁側などで洗ったのでしょう遊女などは月1回で髪洗い日が決められていたので朝から庭で大がまに水を入れて沸かし順番に洗ったのでしょう

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